空を行くハト (高橋晋平)

妻の由紀子が末期の癌を医者に告げられ、早くて半年、持って1年と言われたのは、3か月前のことだった。

ぼくらは病室のベッドで話している。

窓から見える桜は満開で、たったの1年前ならすごく幸せな気分になっていただろう。でも今は、その花で何か心が動くというようなことはなく、別のことばかりが頭の中をぐるぐる回っている。

「ねえ」

由紀子が言った。僕ははっとして答える。

「あ、うん」

「外出たところのファミマでお弁当でも買ってきたら?」

「そうだね」

由紀子は、もうすぐ死んでしまうのかもしれない。

この絶望的な恐怖が、この数か月、僕のほとんどの時間において心を支配していた。今みたいに2人きりで過ごしているときでさえ、その恐怖から逃れることはできなかった。

「ねえー、せっかく来たんだから話してよ」

由紀子は笑いまじりの明るい声で言った。僕は精一杯、「うん」というしかできなかった。

「ハト、いつも鳴いてるよ」

ベッドのそばのテレビの上の棚に目をやる。そこには、僕たちが使っているある鳩時計が置いてある。

この鳩時計は、スマホでボタンを押すと離れたところから鳴かせられる機能を持っている。僕らはこれを、病室と、今はすっかり一人暮らしになってしまった僕らの自宅に置いてあって、お互いに時々相手のもとにあるハトを鳴かせていた。使い始めてもう5年は経つだろう。毎日、特に用事がなくても、僕は自宅にいることの多い由紀子に向けて、仕事場から、帰りの電車から、接待の席から、いたるところからハトを鳴かせていた。5年も経つと、由紀子は、今日ハトが鳴いたとか、そういうことはいちいちコメントしなくなったが、もう僕らは鳩時計が置かれているだけで、それがまるで相手そのもののような感覚をおぼえていた。僕らはおおむね幸せな25年を送ってきた。

由紀子が入院するとき、僕はもう一台同じ鳩時計を買い、病室に置いた。これからは、お互いに、もし相手に何らかの気持ちを送りたかったら、ハトを鳴かせよう、といって、そんなコミュニケーションをとっていた。電話やメールもするけど、ハトはほぼ毎日、いろんな時間にやさしく鳴いた。

由紀子が言った。

「私の棺桶に、絶対入れてよね」

「何を?」

「HATO」

「いや・・・そんな、そんなこと言うなよ、縁起でもない」

「そうしたら、時々は鳴かせてよね。ネットの契約も解除しないでね。鳴かなくなると困るし。」

一つ一つの言葉が、重い。でも僕は、この時だけは力強く言った。言っていいのかわからなかったけど、反射的に言っていた、

「もちろん、もしも、そんなことがあったら、入れるよ。絶対。」

「やった。…あ、でも、これって中になんか多分メカみたいなのが入ってるじゃん。それ焼いちゃったら、焼き場の人に怒られたり、大爆発しちゃったりしたら困るよね。まあ、それもウケるよね、ククククッ」

「たしかに・・フフフフフッ」

「まあ、でもそのくらいゴリ押してよ」

「もちろん、投げ飛ばしても止めさせない。HATOは焼く」

何の話か分からなくなってきたけど、僕らは思った以上に腹の底から笑いがこみあげていた。不思議な感覚で、笑いが止まらなかった。その後、1分くらい、沈黙が流れた。

「ねえ。修平のこと。連絡してあげてくれないかな」

僕は、ゆっくりと、体の動きを停止した、呼吸を整える。

「あの子、寂しいと思うよ」

「そんなわけない、俺を嫌ってる」

修平は今年21歳になる息子だ。大学生で、家を出て一人暮らしをしている。同じ首都圏に住んでいるのに、僕はこの3年間1度も会っていない。正確には、会ってもらえていない。いや、僕が避けているのか。

きっかけは些細なことだった。本当に小さいことだとは思う、けど、その時僕が許せないくらいの感情を瞬発的におぼえたのも事実だ。人間ってのはバカだと思う。小さい頃から、その一挙手一投足に喜んで、涙して、人生のすべてだと思って一緒に暮らしてきた息子が、一瞬だとしても、あんなに憎く感じてしまうことがあるのか。

とにかくその一端の結末として、僕と息子は絶縁した。息子は由紀子とは会っている、らしい。その話も聞いてきた。元気でやっているのは嬉しかった。確かに息子への愛情は今も僕の心の中にあった。

「お願い。修平に、鳩時計、届けてくれないかな。あなたがボタンを押してあげて」

「無理だよ」

「なんでよ」

由紀子はぼくの太ももあたりをバシッとはたいた。意外と力強かったのがなんだか嬉しいと思った。

「私は天国から見てるから。あなたたちは一緒に生きて。私のたった一つの願いなんだから。無視しないでよ。」

そういうと、由紀子は疲れたと言って、横になってしまった。僕はそっと毛布を掛けて、小さな声で「また明日くるね」と言い、病室を出た。

家に帰ってからも、頭の中はぐるぐる回っていた。ただしそれはいつもの由紀子のことではなく、目を背け続けてきた修平のことだった。少しでも由紀子のことを考えていたいのに、この夜だけはどうしても息子が頭から離れなかった。もしかしたら、由紀子のことばかり考えてしまう僕の精神状態に、脳が勝手にストップをかけたのかもしれない、などという変な妄想をしたりした。

修平と、小学生の頃みたいに笑いあえたら、僕はどうなんだろう。一応自問自答しようとしたが、一瞬でそんな必要はないと気づく。昔に戻りたい。息子が嬉しかったこと、楽しかったこと、頑張って挑戦したこと、今何をして何を考えているかを話しながら、家でビールでも飲みたい。そして、そこには絶対に由紀子がいて欲しい。3人で、もう一度。ほんの少しだけ涙がにじんだ。それは、泣いてしまったら本当にすべてが終わりそうだったから、その程度で済んだようなものだった。

ふと、由紀子が押したハトが鳴いた。いつもより多めの、6,7回だったと思う。それをぼんやりと聞いていた。なんだかやけに、長い時間のように感じた。

その時、僕の頭の中に、花火が破裂したような衝撃が走った。ある一つの想いが浮かび、それが少し熱を帯びた、それでいてひんやりとした血のように、全身を駆け巡った感じだった。


“由紀子が死ぬっていうのは、思い込みなのかもしれない”


彼女が体調を著しく崩して、駆け込んだ病院で、検査した結果すぐに相当に進行した癌だと宣告された。僕は八つ当たりのように医者を怒鳴りつけ、ドラマのように「何とかしろ」と駄々をこねて半泣きをした。そしてすぐに、セカンドオピニオンが必要だと、医者を変えた。それが今入院している病院である。結局その医者が言った診断結果も、最初の医者と全く同じだった。

でも、よく考えて見ろ、彼女は今日だって確かにそこにいて、冗談を言って笑ってたじゃないか。

世の中には僕が知らない技術や医学がたくさんあるはずだ。魔法だってあるかもしれない。大自然の奇跡や、神様のご加護があるかもしれない。たかだか2人の医者が言ったことが100%なはずがない。


由紀子を、治そう。


僕がその方法を絶対に見つける。どんなことがあってもあきらめない。


翌週、僕はある知人と一緒にシリコンバレーにいた。


                     ー2ー


                                つづく



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